頼まれごと、喜ばれることをする人生

先日、伯母から頼まれごとをされました。

 

「5日ほど旅行に行くから、留守中庭の草花に水やりたのむわね。

それと携帯電話の契約を見直したいんだけど...」

 

「はいはい。毎日仕事後に水やりやりに行くよ。

携帯電話はとりあえず今の契約がどんなのか教えてくれる?

今日仕事終わったらお邪魔するわね。話聞くよ。」

 

こんな会話です。

伯母の家は職場から車で20分程度。現在は一人暮らし。

水やりは合計で1時間もあれば済む、簡単な雑用です。

携帯だって、伯母ではわからない格安SIM契約をやってあげるだけ。

 

私と多くの人ともし異なる点があるとするならば、

「身内や知人の頼まれごとは基本的に断らない」

ことかもしれません。

 

私が生きてて楽しいと思える瞬間。

それは自分が大切だと思う人に、

ぴかちゃんがいてくれてよかった。

そう言ってもらえること。

 

これは子どもの頃からで、

特に親族に対し、私は可能な限りのことをします。

小さな頃から当たり前の習慣とも言えるので、

おじ、おば、いとこ、兄嫁、その親族の友人や知人など、

頻繁に私に雑用を頼んできます。

ゴミ処理、犬の散歩、中国語通訳、旅行の手配、PCが壊れたetc...

長距離運転は疲れるからと、よく車の運転も頼まれます。

いつでも特別大切な用事でもない限り、私は引き受けます。

そして食事をご馳走になったり、着なくなった服をもらったり、

その時じゃなくても、何かとかわいがってもらえます。

 

パートナーに言われたことがあります。

「自分はおじおばと、そんなに仲良くないな。すごいな。」

 

そう言われ、確かにこれはちょっと特殊なのかもしれないと思いました。

 

私は自分の友人は数少ないです。

新しく人と関わる事が基本的に苦手で、職場の人とも一切お付き合いなし。

でも、親族は違います。何せ子どもの頃からのお付き合いです。

自営業の叔父の仕事を小さな頃から手伝うのも当たり前。

伯母の身の回りの世話や、祖母の看病介護も当たり前。

子どもの頃から友達と遊ばず、いつも親族の頼まれごとをする休日。

夏休みと言えば、身内のお手伝い。それが当たり前。

みんなが喜んでくれる。それが嬉しくて、また動く。

子どもの頃から変わらないので、親族も変わらず今でも私を頼る。

 

一見、自分の時間を削ってまで損しているような気もするかもしれません。

確かに、その瞬間は何かお礼をもらうわけでもないことが多いです。

わかりやすく現金で謝礼をもらうことは、ほぼないですし、

私自身もそれを目的ではやっていません。

でも、何かと「おこぼれ」をいただくことが多いのです。

使わなくなった家電製品、衣類や家具があれば私に声がかかるし、

「いらなければ売ってくれればいい」

と、お小遣い稼ぎができる物をたくさんくれたりもします。

旅行に行く連れ合いが欲しいときにも声がかかったり、

買い物を頼まれ「欲しい物あったら一緒に買っていいから」と、

お金を渡され好きな食べ物を一緒に買わせてもらったり、

とにかく自分がお金を使わなくても、必要な物が回ってきたり、

行きたい場所に連れて行ってもらえたりするのです。

 

20代の頃、小林正観さんの本を好きで読んでいました。

その中で「頼まれごとをしていたら困らない」と言った内容があった気がします。

正しい内容は忘れてしまったのですが、

物心ついた頃から習慣としていた人からの頼まれごとで、

本当に生活に困ることなく「まわっている」状態が続いています。

 

もう少し若い頃は、ここまで顕著に感じてはいなかったのですが、

40歳になった今、頼まれごとを続けてきた結果、

本当にありがたいことに、何かとおすそ分けしてもらうことが増え、

自分のお金を使う機会はそれほど多くなかったりします。

 

何でもお金で解決できてしまうような世の中ですし、

必要な物はお金でほぼ買えてしまう世の中です。

 

そんな中、私の得意なことで喜んでもらうことで、

お金を交わさず、互いの必要な物を提供し合う関係。

そんな交流に温かさを感じたりします。

 

これも私がお金を使う機会が少ない理由の1つかもしれません。

 

それではまた。